ソバの起源

植物としてのソバは、タデ科のそば属の一年草。普通種と韃靼(だったん)種とに大別される。古くから食べられてきた穀物のひとつだ。凶作のときの救荒作物として人々の暮らしを支えてきた。冷涼な気候でも良く育ち、生育期間がほかの穀物に比べて2〜3ヶ月と極めて短く、(早生)の夏ソバと晩生(晩生)の秋ソバに区分される。砂地や荒地など、ほとんど土壌を選ばないことから、さまざまな土地で、さまざまな形で作づけされてきた。
栽培そばの起源地は、これまで東アジア北部、特にバイカル湖付近から中国東北部、アムール川上流沿岸、ダウリアなどとされてきた。中央アジア原産地説もあるのだが、サンスクリット語や梵語(ぼんご)にソバを表す言葉が無いことから、この中央アジア説は信憑性が低い。
このように蕎麦の起源地はずっと東アジア北部だと信じられてきたが、近年多くの研究により、カシミール、ネパールを中心とするヒマラヤ地方、中国南部の雲南地域からタイの産地にかけてではないかという説が浮上してきた。東西に細長く分布する野生のソバ郡が見つかったのだ。これこそ蕎麦の起源を解明する大発見。早速この野生種を調べた所、染色体の数の違いによる2倍種と4倍種のふたつの型が存在していることがわかった。栽培ソバは例外なく2倍種であり、発見された野生2倍種分布が、雲南地域に限定されていることから、栽培ソバの起源は中国雲南地域だということがほぼ確実視されるようになった。
中国雲南省で野生種から栽培種が成立したという事実が示すとおり、中国では古くからソバが栽培されてきた。南北朝時代の北魏(ほくぎ)末から斉(せい)初めの530年から550年頃の華北(かほく)の農業技術所『斎民要術』の巻頭の「雑説」にソバの耕作と収穫時期が書かれている。薬としての記述も古くからあり、701〜704年に書かれた『補養方』にはソバの項目がある。
日本へは、中国から朝鮮半島を経て伝えられてきた。縄文時代中期の遺跡からも発掘されているようだが、後年に混入されたという見方が強く、はっきりした渡米年代はわからない。しかしその後の発掘により縄文晩期にはすでに日本でもソバが栽培されていたとわかった。約3000年前と推定される。さて、日本での最も古い記録としては、『続日本紀』巻九のなかで、元生天皇が養老六年(722)7月19日に発せられたとしている詔である。[干ばつが起きて稲が育たなかったので、将来に備えてソバを植え、蓄えを設けて将来にそなえよ]と奨励している。この頃には広い地域で農民はすでにソバの存在と栽培方法を知っていたことになる。
蕎麦という漢字の所見は、明らかになっていないが、延喜(えんぎ)十八年(918)に発行された『(「)本草(ほんそう)わめい和名』に「曽波牟岐(そばむぎ)」という記述がのこされている。延長(えんちょう)八年(930)に『倭名類聚鈔には「久呂無木(くろむぎ)」の訓読みがある。この「くろむぎ」は、蕎麦の実が凌角であり、果皮が黒いことからこう呼ばれていたようである。
ソバはタデ科の植物で本当は麦ではないのに「むぎ」とつくのは、貝原益軒著の『日本釈名』(元禄十三年、1700)に詳しい。「蕎麦むぎといふ意まことの麦にあらず、麦につぎてよき味也といふ意、民の食として麦につげり」とある。つまり蕎麦の実をむぎに例えたようである。そのため「蕎麦」という漢字に「麦」という字がついているのだ。現在つなで使われている小麦粉なのだが、麦と蕎麦は昔から切っても切れない関係だったのだ。
さて、このように日本には古くから伝搬した蕎麦だがヨーロッパでは十四世紀にドイツ文献に記録があり、十七世紀にはヨーロッパの各地に伝えられていった。
アメリカには千六百二十五年以前にオランダ殖民によって持ち込まれ、続いてカナダにつたわった。現在の世界の主な原産地は、ロシア、ポーランド、中国、カナダ、そして日本。蕎麦は日本のお家芸だと思われがちだが、パスタやクレープ、お菓子などに使われており、ドイツでは、ビールの醸造のほか、蒸留酒の原料としても使われている。